/page/2

補足ー<スタディー/量感>

<スタディー/量感>

 

 

量感については意図的でした。

 

例えば、白いボリュームを100個作って配置を決めていくというスタディー方法はあり、それからできた素晴らしい建築は多くあります。

勿論、白いボリュームのスタディーでも、できたのかもしれません。

 

それでこれもやっぱり白いヴォリュームスタディーと言うのは少しやってみていて、けれどちょっと違ったのです。ヴォリュームだけいじっていても、案の表面を滑って行って形がまとまるだけで、進歩が微差でした。平面を眺めるということの延長にしかすぎなかったのです。

 

ですからここでは、100個とは決めないけれども、他の住宅でのスタディーも含めて、ある程度の量感をもつ、つまり全部があるフォームの決断に真っ直ぐ向いている訳ではないけれど、同じコンセプトから派生した別々のスタディーのバリエーションをふやし、そういう集合がまあ100個くらい集まった時に、結果や関係の中に何かが見えるのではないかと、期待して取り組んでいたのです。

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― から、感覚へ

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― から、感覚へ

 

でも、それができないときに、さあどうしたら良いのだろうと考え出すのです。それは、この展覧会で選ばれなかったから考え出すと言うことではなく、考えてみてください、私たちってそうそう大きいものを建てる機会がそんなにもある時代には今は建っていません。それでも、イマジネーションのヴォリュームは下がらないのです。だからこそ、面白いものが生まれると思っている。それは、他分野を交差するとかそういうこととは別です。素直に社会や状況にぶつければ、それは少し規模等が違ってくるかもしれない。時代が以前とは違うのだから。けれどもそれが楽しく、それがコンテクストです。The place to play.

 

:1では建てられないことになった、では、先ほどまでのようなプロセスを、きれいに”展示“することや、本や紙をめくらせることで見る人や展示空間と1:1の対話を成立させるよう”工夫“していくことに徹するというのは、果たしてその能力の向上(ここまでくらいは言語かできているのですから)以上のものが伝わる出しょうか。なにより、空間は伝わるでしょうか。

 

スケールは1:1でない、どう見ても私に与えられたスペースに収まっているけれども、1:1の空間体験(頭上にものがあったり、雰囲気や流れを感じることのできるあの感覚)を感じることの出来るものができたら、面白いのではないかと考え始めています。それは、従来建築家が動画をつかったり、スケールの大きい模型を覗かせうことで達成しようと苦戦してきたことではあります。けれど、そのどれとも違うチャレンジが、できればunfoldedのメソッドの手の中で出来たら、それはとても面白いと思っています。認識から、感覚・体験への移行と昇華・そして消費が向こうに見えます。

 

でも私はまだその達成が出来ていない、例えば鏡の部屋に精密に立体・半立体・平面をちりばめて、遠さや広さ、頭上の感覚と言うものを、表現することができるのか、(再現、では絶対につまらないのです)というチャレンジなのかもしれないし、それもインスタレーション的でちょっと違うと思っています。幸い、毎日の隙間時間に、非常階段や建物の隙間、という距離感や光の見え方が歪みがちな場所から最近世界を見ていて、視覚的に距離感を感じない異次元的な状態等、いつかやってみたいと思う手法をたくさん収穫していたりします。そういうことを、リファレンスしてみるのも楽しいのかもしれません。

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― 

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― 

 

 

これだけ徹底的にやって、私はなぜ壇上で、あの壇上1:1で作るものを決める―という状況に適した発言ができなかったのでしょうか。

 

審査員は口を揃えて、“騙されている気がする”“面白いようなでも実際そうなのかと疑う気持がある”と言っていましたが、まさにそれで私のプレゼンからの体験として正解なのです。様々な素材を使うことで、建築自体にもそれらが使われるだろうと思わせる、ドローイングが鮮やかであることで、白い模型が華やいで見える、そう言ったことは、見る人の認識に訴える為に、私が意図的に行ったことです。そうして1つ1つが体験者の脳内で補完し合って、ランダムな全体をそれぞれ形成して行く、そのために色んな素材を使い、わざわざ刺激する順序で整え、例えばページのジャンプや、縁なし画像から余白あり図面に移り、そのことが実際の空間認知のコントラストを挙げること、その他も全て意図的です。でもそれは、認識にしか訴えられない範囲での操作で、それが成功したとき、騙されている感覚を思えるのは、素直で大変正解です。そのようにできていた。全く素直な感想です。

 

 

だったら尚更、プロセス群と呼ばれる作品の断片達を11で見せ、そのスタディーの中を見る人の視点で動き回ってもらうことと同時に、その場に11で建築化された状態が建ち、(それすら部分群の一部として扱いたいと言うのはあります)空間体験をすることができたら、なんてすっきりと、すかっと、建築空間に繋げる案としてのもやもやを解消できたかと思ったりもしました。

 

<unfolded houseでの空間体験>

unfolded houseでの空間体験>

 

 

既に知っている、脳の中で飽和した空間が、ばっさりと切れぱかっと開いて、それらがあるラインと、そこに表れた建築の要素でもって繋がれていく。ぱかっと開いたところには空白ができていて、けれども出来た時点では既に、前からそこにあったように空間の一部になっているのです。前からあったように、と書いてみると、始め胡散臭いし言葉遊びに近いと感じていた自らの発言あらかじめ空間の中にはさまざまが織り込まれている―というものが、あながち嘘ではなかったように思います。

平田さんが、“夢の中の空間のよう”と例えたのは、大変上手な喩えであり、重要な補助線のつもりで投げてくれたに違いありません。けれども、そこにはなんというか、   不安や罪悪感の意識があったのかもしれません。

 

<影・光・映り込み・現象・>

<影・光・映り込み・現象・>

 

 

これまで、特にこの直前のスタディーでは、記号的な話をしていた気がします。

 

けれども実際の建築空間で見て感じるもの、人がそこで見るものは、点線でも実践でもありません。物や、光や、空間や、強さや儚さや、冷たさや、すべてです。図面で描かれた線の結果、立ち上がった物質達が1つの空間の中で生影や光や温度といった現象やそこからの感覚を生み出すことを美しいと思っていましたし、内側だけでなくそれらの現象が外で重なり合って作り出す光景は、自分の予測の届かないところにあるユニークなものだと感じていました。実線を点線を、光や影が、つたって、降りてくるのです。

 

先ほどの記号のスタディーから、「断面を立ち上げよう」、と言う意識で具体化に取り組むのは、は本当に軽薄で間違いでした。

 

そうやって現象の映り込む模型をつくるうえで、それは前のつぎはぎ模型を単に白塗りするのではなく、一体のものとして各要素が現象に舐められていく様子を意識することで、自然と模型上で空間化されていったように思います。アドリブでつくったとは言いませんし、元あった機能はもとの場所にあり、視点や方向の話もそのまま適応していますが、それらがデコン的な切断面そのままにおかれるよりは、関わりあう全体をつくってみようとしたのです。

 

白い模型は、口で言っても仕方がありませんが、木や鉄板やコンクリートや石膏や、さまざまを使っています。そしてスケール1:30の家具、というものを偽作する意欲はありませんでしたので、有機物として中央に、ウサギの毛皮を広げました。その毛皮が以外にも、柔らかさと言う意味でも、建築の要素以外での介入者という意味でも、この空間を生かしてくれたように思っています。

<ボリューム展開スタディ・part – whole – object>

 

<ボリューム展開スタディ・part – whole – object

 

これは何がまず面白いのかと言うと、始めの時点では図面が下敷きになって、ボリュームしか見えないことです。下敷きの図面とボリュームは、意識の中でしか対応していないところはありますが、まああの平面の空間は、ものもとこういうヴォリュームでした。これを開いて行きます。一枚目1部分目をぱたっと倒すと、既にそこに、見たことのない空間がありました。あの部分とその部分が切られた断面です。ここがあると、あそこが見えて、そしてそんなことの他に、倒れたボリュームと開かれたものの隙間空間が、あまり見たことのないものでした。だんだんと、開いて行きます。あちらこちらに開かれた空間が出来て行き、最後には真ん中に空をつくって並びます。

 

これはある人が見れば、ワンヴォリュームが複数棟に分かれ、複数人の個人が集まって住むのに適した状態になった、と見えるかもしれないし、この隙間をアーケード的に繋ぎ、屋根をかけるという行為で持って、部分を独立させながらも部分同士の呼応を尊重したくなる人がいるかもしれない。けれども、このときこれをみて、そのアーケード状態は違うと思ったのです。これをつなぐアーケードをつくることは、British museunfosterをやってしまうのは、絶対に違うと、結果的にはそれを再確認する為のスタディーにもなったと考えています。

 

そしてさらに、この後に続く陰影のスタディーへの意識を持つきかけとなったことは確かです。記号的なスタディーだけれども、同時に空間や事象がはっきりと目に見えるスタディーでした。

 

<just simply on book – surfaces telling stories 本スタディー>

 

見て通りです。今までやってきたことを、同じく本の上でやっただけです、紙と言うことに、変わりはありません。「ほとんど物語のように埋め尽くされた空間の、ストーリーを組み替えて考え直してみることなのかもしれません」とプレゼンにて添えてみました。

 

何もこの紙スタディーの為に本を思いついたのではありません。以前から、空間のmassや、言語翻訳されることを避けられないこと、束感、そういった意味で、ストーリー性の説明以外でも使っていました。わかりますか?文字、ではないのです、この場合本でなければいけなかったのです。複数のページに、紙スケールと人の読み易い文字大の関係で収められた、それでも物語を絶対に失うことのない本と言う束に、やってみることが大切でした。本のそういう点は、こうやって言語化しなくとも、読んだことのあるひとなら、誰でも体で知っています。そんな風に知って欲しかった。

 

「ほとんど物語のような、空間のストーリーについて考えてみようとした」と話しましたが、これはとっても面白いのです。例えば、何の本に何を刷りたいとか考えるのも楽しい。レムの図面はアトラスに刷ってしまおうとか、辞書に刷るなら誰だろう、とか誰かと対話してみるのです。これはその人の空間認識や建築家に対する印象が垣間見える、また空間体験より論に長けている人は、また違う方向からコメントしてくれます。辞書だとしても、これなら縁なして、これなら絶対このサイズだろう、これなら…….

(ちなみに、この小説が何かお分かりになる方はいらっしゃるでしょうか。)

 

折り畳んだ上に1階の図面を書き、その裏に2階を刷ると、見開きに部分が散ってしまうということも起きます。

何度も書いてしまうかもしれませんが、これらは全てやっていてとても楽しかった。楽しかったのです。

 

 

 

それは確実に、11でのコミュニケーションです。出来た空間と建築物に11で触れ合う機会を与えられたコンペだったけれども、どうやったらこの案や思想に、11で触れ合うことができるか、を考えていたように思います。11でその場に居るのに、11の共有が得られないという建物もよくあります。このセプトが伝わっているかどうか、生成の仮定が分かるか、設計に体験者が関わっているか、そういうこととは全く別の次元のことだと思っています。

<両面への移動・物質/敷地としての紙>

 

 

紙を無作為に折る、と言う行為には、もともと何かを中に包みこもうという意識がなければ、裏も表もありません。

 

これは、初めてお手伝いの学生に案を説明し、皆で折ってみていたときに、気づいたことです。図面が、裏と表に表れた。

 

またここでクレーになってしまいますが、例えば彼は、両面絵画において、薄い紙を使って裏側の絵を透かすことで片面から見た時に透けて見える―つまり裏が裏でなくなってしまう、というときと、全く透かせない紙で両面を個々に背中合わせで存在させる時と、意図して取り組んでしますが、これを借りれば、薄い紙で透けた空間は、別の二極にあるけれども、空間的に繋がるもしくは影響し合うものかもしれない、また透けない場合は、と読むことも出来ます。

 

この直前の数行は、半分思いつきや妄想と推測のようであまり面白いとは言い切れませんが、いずれにしろ、もとの図面が背中合わせに、前面背面問わず飛び回ってくれたのは、すごく面白いことでした。この後から、スタディーにおいて紙質は一層重要になります。図面が両面を張ったことで、その厚みある確かな敷地や地面としての紙、というものが、このスタディーにおいて大きな変数になると、気がついたのです。

<Unfolded ≠”Collage”>

Unfolded ”Collage”

 

 

クレーも、線の切断には意識的で、五線譜を切断し、切れて絵になった状態の方が旋律を感じるよう仕上げてみせるけれども、図面でもそんなことが出来ると思っていたのです。

 

そんな中もくもくと紙を折ったりめくったりしている中で、何故それまで重要視していなかったか分からないけれど、大変大切な、“私は手を動かして紙をぱたぱたと折る動きと時間を扱っている”ということを思い出したのです。

 

私は全くハサミを使っていなかったのです。コラージュではなかった。どこかと何処かをもってきて、再構成しようという気なんてさらさらないような方向にしか、手を動かしていなかったんです。

 

コラージュの平面に、切って持って来て貼付けた、という行為が見えてそれが見る人まで到達しているのであれば、Unfoldedのメソッドにも、確かに動きやその方向がありました。運動の方向が、平面の中にみえるのです。ぱたっと折って、こっちにきた時の動き、そこからまた小さく、ぱたっと折れたときの小さな別れ、またぴらっと開いて、そのときにそこに回転の支点が見えたり、折れてもないのに、静かに取り残されてしまった部分があったりします。

 

クレークレーと、途中から本を開くのをやめながらも脳の片隅にあって、このことに気がついた時に、やっと、クレーの美しさを達成した絵画とは、別の意味ではありますがこれはより面白いと、自分の中で思えた瞬間でした。ああよかったと、ほっとしたわけです。

 

<点線・dashed line>

 

 

 

((書きかけ部分)学部の頃に、 “点と線から面へ”を読んでいて、その頃から気になっていたことでもありますカンディンスキーは音譜の例を出して、)

 

この点線と言うのは面白いもので、ある図面の中では天井伏せとしておりてきて、あるときは段差であり、ときには仕上げの切り替えであり、単にその図面においては“あいまいなもの”でも“そこにあるもの”として、図面の中で確かに目を引く存在です。

 

特に図面の切断面としての存在を消しながらも、そこにある、見えると言うものが表現されていること、それを書き込む行為自体が、図面というフォーマットを作り上げてきた建築家達の3次元の空間への意識のあらわれのようで、特記すべき行為だと感じていたのです。

補足ー<スタディー/量感>

<スタディー/量感>

 

 

量感については意図的でした。

 

例えば、白いボリュームを100個作って配置を決めていくというスタディー方法はあり、それからできた素晴らしい建築は多くあります。

勿論、白いボリュームのスタディーでも、できたのかもしれません。

 

それでこれもやっぱり白いヴォリュームスタディーと言うのは少しやってみていて、けれどちょっと違ったのです。ヴォリュームだけいじっていても、案の表面を滑って行って形がまとまるだけで、進歩が微差でした。平面を眺めるということの延長にしかすぎなかったのです。

 

ですからここでは、100個とは決めないけれども、他の住宅でのスタディーも含めて、ある程度の量感をもつ、つまり全部があるフォームの決断に真っ直ぐ向いている訳ではないけれど、同じコンセプトから派生した別々のスタディーのバリエーションをふやし、そういう集合がまあ100個くらい集まった時に、結果や関係の中に何かが見えるのではないかと、期待して取り組んでいたのです。

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― から、感覚へ

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― から、感覚へ

 

でも、それができないときに、さあどうしたら良いのだろうと考え出すのです。それは、この展覧会で選ばれなかったから考え出すと言うことではなく、考えてみてください、私たちってそうそう大きいものを建てる機会がそんなにもある時代には今は建っていません。それでも、イマジネーションのヴォリュームは下がらないのです。だからこそ、面白いものが生まれると思っている。それは、他分野を交差するとかそういうこととは別です。素直に社会や状況にぶつければ、それは少し規模等が違ってくるかもしれない。時代が以前とは違うのだから。けれどもそれが楽しく、それがコンテクストです。The place to play.

 

:1では建てられないことになった、では、先ほどまでのようなプロセスを、きれいに”展示“することや、本や紙をめくらせることで見る人や展示空間と1:1の対話を成立させるよう”工夫“していくことに徹するというのは、果たしてその能力の向上(ここまでくらいは言語かできているのですから)以上のものが伝わる出しょうか。なにより、空間は伝わるでしょうか。

 

スケールは1:1でない、どう見ても私に与えられたスペースに収まっているけれども、1:1の空間体験(頭上にものがあったり、雰囲気や流れを感じることのできるあの感覚)を感じることの出来るものができたら、面白いのではないかと考え始めています。それは、従来建築家が動画をつかったり、スケールの大きい模型を覗かせうことで達成しようと苦戦してきたことではあります。けれど、そのどれとも違うチャレンジが、できればunfoldedのメソッドの手の中で出来たら、それはとても面白いと思っています。認識から、感覚・体験への移行と昇華・そして消費が向こうに見えます。

 

でも私はまだその達成が出来ていない、例えば鏡の部屋に精密に立体・半立体・平面をちりばめて、遠さや広さ、頭上の感覚と言うものを、表現することができるのか、(再現、では絶対につまらないのです)というチャレンジなのかもしれないし、それもインスタレーション的でちょっと違うと思っています。幸い、毎日の隙間時間に、非常階段や建物の隙間、という距離感や光の見え方が歪みがちな場所から最近世界を見ていて、視覚的に距離感を感じない異次元的な状態等、いつかやってみたいと思う手法をたくさん収穫していたりします。そういうことを、リファレンスしてみるのも楽しいのかもしれません。

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― 

<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― 

 

 

これだけ徹底的にやって、私はなぜ壇上で、あの壇上1:1で作るものを決める―という状況に適した発言ができなかったのでしょうか。

 

審査員は口を揃えて、“騙されている気がする”“面白いようなでも実際そうなのかと疑う気持がある”と言っていましたが、まさにそれで私のプレゼンからの体験として正解なのです。様々な素材を使うことで、建築自体にもそれらが使われるだろうと思わせる、ドローイングが鮮やかであることで、白い模型が華やいで見える、そう言ったことは、見る人の認識に訴える為に、私が意図的に行ったことです。そうして1つ1つが体験者の脳内で補完し合って、ランダムな全体をそれぞれ形成して行く、そのために色んな素材を使い、わざわざ刺激する順序で整え、例えばページのジャンプや、縁なし画像から余白あり図面に移り、そのことが実際の空間認知のコントラストを挙げること、その他も全て意図的です。でもそれは、認識にしか訴えられない範囲での操作で、それが成功したとき、騙されている感覚を思えるのは、素直で大変正解です。そのようにできていた。全く素直な感想です。

 

 

だったら尚更、プロセス群と呼ばれる作品の断片達を11で見せ、そのスタディーの中を見る人の視点で動き回ってもらうことと同時に、その場に11で建築化された状態が建ち、(それすら部分群の一部として扱いたいと言うのはあります)空間体験をすることができたら、なんてすっきりと、すかっと、建築空間に繋げる案としてのもやもやを解消できたかと思ったりもしました。

 

<unfolded houseでの空間体験>

unfolded houseでの空間体験>

 

 

既に知っている、脳の中で飽和した空間が、ばっさりと切れぱかっと開いて、それらがあるラインと、そこに表れた建築の要素でもって繋がれていく。ぱかっと開いたところには空白ができていて、けれども出来た時点では既に、前からそこにあったように空間の一部になっているのです。前からあったように、と書いてみると、始め胡散臭いし言葉遊びに近いと感じていた自らの発言あらかじめ空間の中にはさまざまが織り込まれている―というものが、あながち嘘ではなかったように思います。

平田さんが、“夢の中の空間のよう”と例えたのは、大変上手な喩えであり、重要な補助線のつもりで投げてくれたに違いありません。けれども、そこにはなんというか、   不安や罪悪感の意識があったのかもしれません。

 

<影・光・映り込み・現象・>

<影・光・映り込み・現象・>

 

 

これまで、特にこの直前のスタディーでは、記号的な話をしていた気がします。

 

けれども実際の建築空間で見て感じるもの、人がそこで見るものは、点線でも実践でもありません。物や、光や、空間や、強さや儚さや、冷たさや、すべてです。図面で描かれた線の結果、立ち上がった物質達が1つの空間の中で生影や光や温度といった現象やそこからの感覚を生み出すことを美しいと思っていましたし、内側だけでなくそれらの現象が外で重なり合って作り出す光景は、自分の予測の届かないところにあるユニークなものだと感じていました。実線を点線を、光や影が、つたって、降りてくるのです。

 

先ほどの記号のスタディーから、「断面を立ち上げよう」、と言う意識で具体化に取り組むのは、は本当に軽薄で間違いでした。

 

そうやって現象の映り込む模型をつくるうえで、それは前のつぎはぎ模型を単に白塗りするのではなく、一体のものとして各要素が現象に舐められていく様子を意識することで、自然と模型上で空間化されていったように思います。アドリブでつくったとは言いませんし、元あった機能はもとの場所にあり、視点や方向の話もそのまま適応していますが、それらがデコン的な切断面そのままにおかれるよりは、関わりあう全体をつくってみようとしたのです。

 

白い模型は、口で言っても仕方がありませんが、木や鉄板やコンクリートや石膏や、さまざまを使っています。そしてスケール1:30の家具、というものを偽作する意欲はありませんでしたので、有機物として中央に、ウサギの毛皮を広げました。その毛皮が以外にも、柔らかさと言う意味でも、建築の要素以外での介入者という意味でも、この空間を生かしてくれたように思っています。

<ボリューム展開スタディ・part – whole – object>

 

<ボリューム展開スタディ・part – whole – object

 

これは何がまず面白いのかと言うと、始めの時点では図面が下敷きになって、ボリュームしか見えないことです。下敷きの図面とボリュームは、意識の中でしか対応していないところはありますが、まああの平面の空間は、ものもとこういうヴォリュームでした。これを開いて行きます。一枚目1部分目をぱたっと倒すと、既にそこに、見たことのない空間がありました。あの部分とその部分が切られた断面です。ここがあると、あそこが見えて、そしてそんなことの他に、倒れたボリュームと開かれたものの隙間空間が、あまり見たことのないものでした。だんだんと、開いて行きます。あちらこちらに開かれた空間が出来て行き、最後には真ん中に空をつくって並びます。

 

これはある人が見れば、ワンヴォリュームが複数棟に分かれ、複数人の個人が集まって住むのに適した状態になった、と見えるかもしれないし、この隙間をアーケード的に繋ぎ、屋根をかけるという行為で持って、部分を独立させながらも部分同士の呼応を尊重したくなる人がいるかもしれない。けれども、このときこれをみて、そのアーケード状態は違うと思ったのです。これをつなぐアーケードをつくることは、British museunfosterをやってしまうのは、絶対に違うと、結果的にはそれを再確認する為のスタディーにもなったと考えています。

 

そしてさらに、この後に続く陰影のスタディーへの意識を持つきかけとなったことは確かです。記号的なスタディーだけれども、同時に空間や事象がはっきりと目に見えるスタディーでした。

 

<just simply on book – surfaces telling stories 本スタディー>

 

見て通りです。今までやってきたことを、同じく本の上でやっただけです、紙と言うことに、変わりはありません。「ほとんど物語のように埋め尽くされた空間の、ストーリーを組み替えて考え直してみることなのかもしれません」とプレゼンにて添えてみました。

 

何もこの紙スタディーの為に本を思いついたのではありません。以前から、空間のmassや、言語翻訳されることを避けられないこと、束感、そういった意味で、ストーリー性の説明以外でも使っていました。わかりますか?文字、ではないのです、この場合本でなければいけなかったのです。複数のページに、紙スケールと人の読み易い文字大の関係で収められた、それでも物語を絶対に失うことのない本と言う束に、やってみることが大切でした。本のそういう点は、こうやって言語化しなくとも、読んだことのあるひとなら、誰でも体で知っています。そんな風に知って欲しかった。

 

「ほとんど物語のような、空間のストーリーについて考えてみようとした」と話しましたが、これはとっても面白いのです。例えば、何の本に何を刷りたいとか考えるのも楽しい。レムの図面はアトラスに刷ってしまおうとか、辞書に刷るなら誰だろう、とか誰かと対話してみるのです。これはその人の空間認識や建築家に対する印象が垣間見える、また空間体験より論に長けている人は、また違う方向からコメントしてくれます。辞書だとしても、これなら縁なして、これなら絶対このサイズだろう、これなら…….

(ちなみに、この小説が何かお分かりになる方はいらっしゃるでしょうか。)

 

折り畳んだ上に1階の図面を書き、その裏に2階を刷ると、見開きに部分が散ってしまうということも起きます。

何度も書いてしまうかもしれませんが、これらは全てやっていてとても楽しかった。楽しかったのです。

 

 

 

それは確実に、11でのコミュニケーションです。出来た空間と建築物に11で触れ合う機会を与えられたコンペだったけれども、どうやったらこの案や思想に、11で触れ合うことができるか、を考えていたように思います。11でその場に居るのに、11の共有が得られないという建物もよくあります。このセプトが伝わっているかどうか、生成の仮定が分かるか、設計に体験者が関わっているか、そういうこととは全く別の次元のことだと思っています。

<両面への移動・物質/敷地としての紙>

 

 

紙を無作為に折る、と言う行為には、もともと何かを中に包みこもうという意識がなければ、裏も表もありません。

 

これは、初めてお手伝いの学生に案を説明し、皆で折ってみていたときに、気づいたことです。図面が、裏と表に表れた。

 

またここでクレーになってしまいますが、例えば彼は、両面絵画において、薄い紙を使って裏側の絵を透かすことで片面から見た時に透けて見える―つまり裏が裏でなくなってしまう、というときと、全く透かせない紙で両面を個々に背中合わせで存在させる時と、意図して取り組んでしますが、これを借りれば、薄い紙で透けた空間は、別の二極にあるけれども、空間的に繋がるもしくは影響し合うものかもしれない、また透けない場合は、と読むことも出来ます。

 

この直前の数行は、半分思いつきや妄想と推測のようであまり面白いとは言い切れませんが、いずれにしろ、もとの図面が背中合わせに、前面背面問わず飛び回ってくれたのは、すごく面白いことでした。この後から、スタディーにおいて紙質は一層重要になります。図面が両面を張ったことで、その厚みある確かな敷地や地面としての紙、というものが、このスタディーにおいて大きな変数になると、気がついたのです。

<Unfolded ≠”Collage”>

Unfolded ”Collage”

 

 

クレーも、線の切断には意識的で、五線譜を切断し、切れて絵になった状態の方が旋律を感じるよう仕上げてみせるけれども、図面でもそんなことが出来ると思っていたのです。

 

そんな中もくもくと紙を折ったりめくったりしている中で、何故それまで重要視していなかったか分からないけれど、大変大切な、“私は手を動かして紙をぱたぱたと折る動きと時間を扱っている”ということを思い出したのです。

 

私は全くハサミを使っていなかったのです。コラージュではなかった。どこかと何処かをもってきて、再構成しようという気なんてさらさらないような方向にしか、手を動かしていなかったんです。

 

コラージュの平面に、切って持って来て貼付けた、という行為が見えてそれが見る人まで到達しているのであれば、Unfoldedのメソッドにも、確かに動きやその方向がありました。運動の方向が、平面の中にみえるのです。ぱたっと折って、こっちにきた時の動き、そこからまた小さく、ぱたっと折れたときの小さな別れ、またぴらっと開いて、そのときにそこに回転の支点が見えたり、折れてもないのに、静かに取り残されてしまった部分があったりします。

 

クレークレーと、途中から本を開くのをやめながらも脳の片隅にあって、このことに気がついた時に、やっと、クレーの美しさを達成した絵画とは、別の意味ではありますがこれはより面白いと、自分の中で思えた瞬間でした。ああよかったと、ほっとしたわけです。

 

<点線・dashed line>

 

 

 

((書きかけ部分)学部の頃に、 “点と線から面へ”を読んでいて、その頃から気になっていたことでもありますカンディンスキーは音譜の例を出して、)

 

この点線と言うのは面白いもので、ある図面の中では天井伏せとしておりてきて、あるときは段差であり、ときには仕上げの切り替えであり、単にその図面においては“あいまいなもの”でも“そこにあるもの”として、図面の中で確かに目を引く存在です。

 

特に図面の切断面としての存在を消しながらも、そこにある、見えると言うものが表現されていること、それを書き込む行為自体が、図面というフォーマットを作り上げてきた建築家達の3次元の空間への意識のあらわれのようで、特記すべき行為だと感じていたのです。

補足ー<スタディー/量感>
<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― から、感覚へ
<プロセス・マテリアル・認識> ―感覚への未到達― 
<unfolded houseでの空間体験>
<影・光・映り込み・現象・>
<ボリューム展開スタディ・part – whole – object>
<just simply on book – surfaces telling stories 本スタディー>
<両面への移動・物質/敷地としての紙>
<Unfolded ≠”Collage”>
<点線・dashed line>

About:

Following: